痛ましい事故に共通して思うこと

 軽井沢のバス転落事故は大変痛ましく、将来の夢多き若く有能な学生たちが多く犠牲になったことは、なおさら悔しさと喪失感と無念の思いを強くする。

 まだ原因は明確ではないようであるが、報道によれば、やはり運転手のスピードの出し過ぎが原因の一つであるようである。
類似の事故は、ここ数年増えてきたように思うが、常に感じることは、加害者側関係者にプロの意識が希薄であることである。

 笹子トンネル天井崩落事故で被害者の親族の一人が加害者に投げかけた言葉がよみがえる。
「貴方達にもう少しプロの意識があれば姉は死なないで済んだ」と

 その通りであると思う。
いつごろからかプロの意識の継承力とその縛りが日本全体で衰退してきてしまったと強く感じる昨今である。
私が社会に出たてのころ、しがない会社のいちサラリーマンであっても先輩からプロの意識を持つよう強く教えられた。例えば今日のような大雪の日でも「遅刻するなど大人としてけしからん」などはイろはのイである。いろいろと叱られているうちにその中身が見えてきた。

 大人はそしてプロは周りの状況と自分の立場を客観的に読み取り、それらの数歩先の変化を予測し、他者のためにこそ動くべきものだと・・。
今の私にとって先輩諸氏から目の玉が飛び出るほど怒鳴られたことこそ大きな自信となっている。

 上記の私の経験は、今では間違いなくパワハラ、いじめ などといわれる内容を多く含んでいると思われるが、特段有能者でない私は、繰り返しそのように叱っていただいたことで、その幾分かでも身に着けることができたことを今では本当に感謝している。

 本当の意味でのパワハラ、いじめを肯定するつもりはないが、プロの意識を持つということは、生易しいことではなく、人間の弱さというものと常に向き合わなければならず、時にはいい歳になっても他人から厳しい目で叱られることが必要であると思う。しかし今は叱るべき立場にある人が他者を叱らない。学校の先生、親、上司・・・・etc.

 バスのドライバーがプロの意識を持てば、乗客の命を預かることの重大な責務を忘れるはずがない。もちろんその管理者も然りである。
そしてそのことを忘却したままハンドルを握らないためにこんなことを提案したい。

 是非出発前に必ず乗客の方に正対し、乗客一人一人の顔を見ながら自分があずかる命とその人生を確認する作業(例えば、自らが責任をもって運転することの挨拶と、絶対自らの過失における事故は起こさないことの宣誓)を何かしらの形で義務化してもらいたいと思うのである。
その客観的視点に立って自らの責務を遂行することがプロとしての当然の行動であるはずである。

 プロという言葉とは少し違うかもしれないが、バス転落事故の記事の隣に小さい子供が「親の車の出庫の際に轢かれて死亡」という記事が載っていた。これもまた痛ましすぎる事故である。類似の事故も何度も繰り返し起こっているように思う。

 2歳くらいの子供をなぜ親は道路上で一人にしたのか?

 数歩とは言わない、一歩でも先のことに思いをいたせば、この危険は察知することができ、当然に防ぐことができた事故ではないだろうか。

 最近スーパーやファミレス等の駐車場などでも、小さい子供を自分の車まで自分の前後を手をつながずに歩かせている親御さんをよく見かける。親として自分の子供を守る責務を忘却しているように見えて腹立たしい瞬間がある。
プロ意識の問題とは違うがどこか共通点を感じる。子供の置かれている状況と一歩先の状況を予測し、子供のために何をすべきかを考え行動することは親としての当然の責務ではなかろうか。

 もちろんこれらのことは他人事ではなく、私の事務所でも私及び職員が大人としてプロとしての自覚を持ち、客観的立体的に一つの仕事を考察し、常に仕事の向こうに多くの関係者がいることを忘れず、一度も接触することがない方であってもその関係者に思いをいたし、その方たちのためにこそ最善の策と行動をとることを改めて徹底したいと思う。

 亡くなられた若き命を惜しみつつ、犠牲者となられた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。